初音ミクの唸り

飽きたらやめます

手記 10/26

三者面談の帰りと思しき母とその娘が横を過ぎた。揚々とした女性特有の甲高い音が、長く放置された古く厚ぼったい鼓膜を鋭く叩いた。学校指定のジャージに後ろに束ねただけの黒い髪が特徴の娘が絶妙に芋くさく、彼女を愛おしく思ったも束の間、すぐさまどうしようもない過去の記憶に神経を支配された。記憶の中の女子中学生は私を軽蔑し、あらゆるトラウマを植え付けた。一通り耽り終えた頃には母娘は跡形もなく夜に消えていた。孤独は二人の存在を拒否していた。

  東京の人間の背中には鋼でできた大きなゼンマイが刺さっている。その鋼を引き抜くことはできず、自分で回すこともできない。ふとした拍子にジー、ジーと巻かれ、巻かれた分だけ自分の意識と無関係にセカセカと動き続ける。

 

  東京駅、品川駅、赤羽駅。都内の各県境駅および各主要駅にはゼンマイ課が設けられていて、訪れた人間に見境なく鋼を取り付けていく。男、女子供だろうと容赦はない。たちまち人の押し寄せる陸の港は阿鼻叫喚の巷と化し、最後の人間たちがいったん悲鳴をあげたと思ったら、カラクリ人間らが音速で改札を走り抜ける。さながらダービースタリオン。一着を獲った名誉ある人馬にはゼンマイ100回転が贈られ、名誉SEとして連続50000日出社を可能にさせている。さようなら名誉SE、彼に明日はない

 

  東京の人間は忙しなく動く。常に時間に追われている。職や利便性に捕らわれ、彼らは逃げ出すことができない。東京墓場。東京スカイツリーは東京に骨を埋めた人間への慰霊碑であり、湯水のように沸き続けるJ-POPは彼らに捧げる鎮魂歌である。東京で唯一容易に叶えられる夢がある。ゼンマイが外れる唯一の魔法、人間として最後の衝動。みな、夢を掴んで東京から消えてゆく。東京には夢がある

 

  

さようならホットパンツ女児

火照った太陽も次第に落ち着きを取り戻し、とうとう今年も枯れ木が萌ゆる冷たい季節を迎えようとしている。迎秋。透明に輝くグリーンの重たいドレスは捨ててしまおう。みすぼらしい、不揃いな、虫食い穴だらけの、オレンジ色のワンピースは嘸かし寒いであろう。ならば白い羽衣を纏うといい。冬は仕立て屋さんなのだ。

さようならホットパンツ女児。今年も彼女らは誰よりも美しかった。ホットパンツで登下校する少人数女児集団を見かけた。笑う、はしゃぐ、跳ねる、くすぐりといったスキンシップ。この時ほど永遠を願ったことはなかった。彼女らに来年はない。小麦色の真夏の果実は今その瞬間にしか存在せず、二度と同じ味に出くわすことはない。空間を切り取って額縁に飾りたい、飾りたい。儚く脆く、見上げることのみ許された天上人を愛しく思い、誰にも愛されぬまま、またひとつ歳をとる。

今年の秋は洋服を買いたい。近頃はファッション雑誌に目を通すことがしばしばある。シャツ一枚二万円と記されていたりすると思わず舌を巻いてしまうが、きっとフォアグラやらキャビアを練り込んだ生地でも使っているのだろう。いまいちわからない。挑戦の秋、百戦錬磨の俺は挑むことを惜しまない。先ずは周りから固めていこう。手始めにしまむらで女児ホットパンツを買う。次に女児用ミニスカート。もししまむらで女児用ホットパンツが割引されてるとこ見かけたら教えてください

回想録、廃人

廃人になりたい。誰もが期待をしない、手を差し伸べない、近付こうとしない、大変なろくでなしになりたい。昼夜問わず道の隅で座り込み世間を見下した目で街を見守る。さながらゴミ。比喩にさえ見放された存在に私は憧れる。私にとって廃人はかっこいいのだ。

幼い頃から親が厳しく、少しでも親の示す道を踏み外そうとするものなら厳しく叱られた。田舎に住んでいるクセに親がゲームを毛嫌いしていて、友人とコミュニケーションを取れず苦悩した記憶がある。というより苦悩の一言に尽きる幼少期だった。

いつも遊ぶ仲の良い友人がいた。私の小学校には「友達同士で学内から出てはいけない」という掟が存在した。そんな掟を軽々と破る友人と知り合い、二人で、時には複数人で自転車を30分漕ぎ大型スーパーに意味もなく突っ走ることが多々あった。掟は破るためにあったことを知る。

常に反逆者で突拍子もなくドデカイ夢を語り出すような友人だったのだが、今は当時の面影はなくクソ真面目に生活している。クソッたれ。人は変わる。共に門限を破った、こっそり親に取り上げられたお年玉を握りしめ駄菓子屋に駆け込んだ、公民館の雑談スペースを占拠して大声で騒いだ、学校で禁止されてたエアガンで遊んだ、思い出すだけでヤケ酒をせざるを得なくなるのだけど、この状況がどうも嫌いになれない。廃人はかっこいいのだ

紺色で、ナイロン製の

国産和牛の特売に走る主婦も、機械的にニュース原稿を読む午後のアナウンサーも、乾く畑でキュウリを収穫する首にタオルを巻いた老婆も、みな揃って、スクール水着を、終電帰りコンビニで割引スイーツを手にするOLも、カモメが泳ぐ熱い防波堤を慎重に歩く女子高生も、ブランコを目一杯漕ぎ靴飛ばしをする女子小学生も、みな揃って、スクール水着を。男も、みな。

俺はスクール水着を着ていない。白のシャツと、ユニクロのパンツを拵えてビーチサンダルを履く。紺色で、ナイロン製のスクール水着は国民服となり白シャツを迫害する。天皇一族は高級な学生用お水着を着られ始める。着用せぬ物 不敬罪。クールジャパンを見事に体現したスクール水着は瞬く間に宇宙へ発信され、今もなお秒速999999999kmで宇宙をスク水色に染め続けている。一方、渋谷では白シャツデモが昼夜問わず行われ、たった今、白シャツ発見即射殺法案が可決した。スクール水着は純潔なイメージを失い、殺戮マシーンへと豹変した。発砲音は雑音にまで成り下がり、スクール水着による歓声が湧き上がる。射殺される俺。スクール水着を着せられ棺桶に棄てられる、とうとう浄化されたなと死んだスクール水着に言葉を投げるスクール水着。弾圧に負けた白シャツは群衆の前でスクール水着に炙られ大便器に流された。ユニクロのパンツは有志によりアフリカに送られ、後日ユニクロパンツを履く笑顔の少年の写真が届いたが過激派スクール水着により炙られ大便器に流された。

スクール水着は大好きです

焦げ茶色の錆び 散る火花

感受性が衰えた

平常心!平常心!平常心!平常心!平常心!平常心!広げ続けたアンテナ、いつしか朽ち果て、平常心!平常心!


飽きたのだ。数少ない趣味があった。大自然に憧れ、遠出を繰り返す。野山は僕を拒まなかった。しかし飽きたのだ。繰り返す度昂りは減り、今では何のために訪れたのかすらわからなくなるときがある。事実、惹かれない (認めたくない)。 飽きたのだ。


薄暗い路地を歩いているとき、花火をしている家族をみた。
花火はきっと綺麗で、きっと散ることはなかった

陽炎

お天道様はご機嫌だった。時計は12時を指していて、熱々とした熱風と大地を踏み歩く刺激的なコスチュームに複雑な思いを巡らせていた。穏やかな真昼に川縁が現れ、おまけに控えめな人口池まで付随している。川と対になる形でほどよい長椅子に腰を掛け、いっぱいに夏を吸い込んだ。ドブ臭さがツンと鼻を掠め、一通りの幻想を偽りの走馬灯に映し終えた頃、文庫本を取り出しひどく真面目に読み漁ったのだが、小一時間で飽きがきて逃げるように川との相席を後にした。


少しばかし歩くと、いかにもマダムが好みそうなマンションの群れが顔を出した。側には人口的な緑と人口的な立体アート、人口的な街への入り口が続いている。サワサワと揺らめく葉は、私をより一層感傷的にさせた。生まれ育った要塞にも似たような景色を見た。今日はよく子連れとすれ違う。それはみな自分の幼少期と照らし合わせても、とても同じ人種とは思えない程、愛され、愛し合っていて、未来永劫同じ経験をできないことを知っていた。


人口的な獣道を抜けると、アメリカンでフラットな、閉鎖的でおもちゃのような世界が広がった。陽射しは強さを増し滑稽な街を更に滑稽にさせた。この街一番の美女はバービー人形に違いない。OLがパスタを巻いている。妊婦がマタニティトークに花を咲かせている。ここは一人一人が演者であり主人公なのだ。


もう進めなかった。全ての道は現実へと続き、それを構成する三色を宿した信号機と古びたアパートの外壁が、重く、ゆっくりと、幻想で固めた空間を打ち砕いていった。コテコテな人々は散り散りになり、辿った道をトボトボと歩み戻す。保育園を見つけた。保育園で現在絶賛増築中のプールは7月28日に施工完了するそうだ。未だ見ぬ園児の夏の思い出に心を馳せつつ、はじめの長椅子に会釈をした。